〜プライベートな私のお話
こんにちは”ざわきょん”と申します。
はじめにタイトルの森のワークベンチとは?
森というほどのものでもないのですが小さな山の麓に住んでおりまして、家のすぐ隣が森なのです。ですからYoutubeでもお気づきの方もいるかと思いますが、鳥の声が絶え間なく聞こえています。
窓の外にも森が広がっており、夏でも夜は涼しい環境です。
そんな自然に恵まれた環境でプラモデルを作っています。なので森のワークベンチ(作業台)という訳です。
私は1960年名古屋製の既におじいちゃんの領域に入りつつあります(^^;
初めてのプラモデルはおそらく小学校の低学年あたりに買ってもらった「サンダーバード」シリーズの中の何かだと思います。ちなみに3号と4号が好きなのですが。
スケールモデルに目覚めたのが1971年、当時住んでいた小牧市の南にある名古屋空港で行われた国際航空宇宙ショーでしょう。通っていた小学校が空港の北側10km程度のところにあり校庭の空を米海軍のブルーエンジェルスがダイヤモンド編隊で(もしかしたらデルタだったかも?)ローパスしたのが衝撃的でした。
空港へも父親と観にいき、タミヤ1/48のAV-8Aハリアーを小牧の「とらや」さんで買ってもらい、初めて塗装組み立てしました。
また叔父が名古屋でプラモデル屋を当時営んでおり、その影響も大きかったと思います。何せその叔父は当時「モデルアート」誌で年1回行われていた「プラプレーンコンテスト」で金賞など獲得していた人ですから、プラモが遺伝子に組み込まれているのかもしれません。
お店自体は無くなってしまい、叔父自身はシェフに変貌を遂げました。僕自身も料理を作るのは好きな方だと思っています。
そんなことはどーでもいいです。
今でも覚えているのがコンテストに向けてレベルF4Uの垂直尾翼を作っている叔父の手元です。子供だった私は作り方を教えてくれと何度も頼みましたが、それは叶いませんでした。
当たり前ですよね。
私でも子供にそんなこと頼まれたら無視しますもんw
なのでパテの使い方からマスターしていくしかありませんでした。
パテならばということで、その叔父の弟にあたる叔父がガラス屋さんをやっていて、当時はまだ木枠の窓が多かった頃ですから、ガラス周りに使うパテを分けてもらって失敗しました。
あれは油性コーキング。プラモでは使えませんw
そんな具合に子供の頃からトライアンドエラーを繰り返していました。
今も繰り返していますw
飛行機ばかり作っていましたが、中学生の頃地元の模型屋さんで誘われたクラブに入り、しっかりとウェザリングを施したタミヤのKVー1を見てAFVもいくつか作りました。
高校生の頃はほとんど作っていませんでしたね。私にも一応思春期といった時期があったみたいです。
20歳の頃、引越しをした名古屋の実家近くに「ナゴヤホビースポット」があり、そこでもクラブに入っていろんな人の影響を受けました。中には雑誌「レプリカ」の取材を受けた方もいましたね。
影響が大きいためか購入したキットは多かったし、手をつけたキットも多かったのですが、上を目指し過ぎて完成に至ったものは誰も作らないバイクのキットくらいでした。バイクには当時から乗っていたんですよ。
結婚して秋田に移り住んでからしばらくすると、やはり虫が騒ぎ出します。
またまたお店経由で模型クラブに入り、長い時間をかけて飛行機のプラモを作りました。この時は当時で言うホームページをYahooジオシティーズで作ったり、ブログなども作ったりしていました。なので完成への責務みたいなものもありましたので完成品はそれなりにありましたね。
どうも私の場合、ブログやサイトで公開していないと、つまりは誰かに進捗状況を報告していないと完成にはつながらないみたいです。サラリーマンみたいですね( ̄▽ ̄;)
10年ほど前に足利に移り住み現在に至っております。
プラモデルはこの頃から老眼がひどくなり諦めておりました。数多くあった積みプラもヤフオクで手放してしまいました。
しかし数年前に遠近両用メガネを購入したのと、ある日娘夫婦と一緒にガンプラをショップに見にいったんですね。そうしたら自分の中で虫が騒ぎ出しちゃったんですよ。
その時はガンプラに手を出したんですけどね、処分できなかったプラモがまだ手元にいくつかあったので少しずつ作ってみました。
同時に今時はブログじゃなく動画だろとYoutubeチャンネルも始めました。
なかなかこれが大変なんですけどね。作りながら撮影するのって。
そして今度は文字にしたくなった訳です。そんな訳で改めてブログを始めてみました。
今後ともよろしゅうお願いいたします。
こんなこともやっております